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GONCEPT of “REALISM”

「リアリティー」追求ではなく、果てしなき「リアリズム」の追求。魚をより美しく、より愛らしく、よりクール…に、人でしかできない感性が息づくルアーがここに。

「魚」は、人を魅了してやまない。
人にとって、単なる生き物以上の“特別な何か”を感じさせてくれる。
丸く愛らしい眼、銀に輝く魚体、脈打つように並ぶ無数のウロコ…何にもまして美しく、愛らしいものだ。何千もの魚種のそれぞれに、その魚がその魚であるための理由が与えられている。
不思議なほどのDNAの力。
たしかに小さな“生命”をその身に宿し、たくましいまでに泳いでいる。

人の営みと、切っても切り離せない希有な存在。
魚を、観て愛でて、触れて慈しみ、食しては生きる糧とし、そして「釣り」を通して、“魚”と興じている。
太古の昔から、人は仕掛け作りに知恵を働かせ、それぞれの「釣り」を楽しんできた。そこに、人と魚との知恵比べがあり、駆け引きがあり、おもしろみがある。

釣りは、それぞれの人の人生を、“彩り”あるものにしてくれた。

「ルアー」で魚を釣る…古くからルアーは存在し、“もっと釣りたい”という尽きることのない願望から、先人はいかにリアルに魚に似せられるか、に知恵を絞ってきたことだろう。

クリムゾンの飽くなき「リアリズム」の追求は、ルアーの“原点回帰”を求めたものかもしれない。この現代に生きるバス、特にビッグバス・モーンストゥルオに対峙するとき、たどり着いた答えである。やはり釣り人であるかぎり、より大きな魚を追い求めるのは、極めて自然なことである。
生まれた時からルアーの猛攻に晒された、いわば目の肥えた百戦錬磨の魚を相手にしなければならない。

ルアーに再び、先人が追い求めた、「リアリズム」の、さらにその“極み”を封じ込めるのだ。愛くるしい目、輝かしい銀の魚体、無数に並ぶウロコ…を、人の研ぎ澄ましたモノづくりの技巧に、先端工業生産技術をインターフェースして、表現する。

まさに、瑞々しいまでの“生命”そのものを吹き込むのだ。
そこには、人の感性でしか表現できない、より美しく・より愛らしく・よりクールに…が息づいている。
これこそ、クリムゾンが追求する「極みのリアリズム」なのである。

泳げばいいだけの単なるプラスチックの塊では、折角の釣りが味気ない。あの愛らしい魚を形取ったルアー。ともに釣りを楽しみ、ともに魚と戦う友人のようでもあるルアー。このような希有な存在の工業製品であるからこそ、そこに工芸的趣向を求めながら、なおかつどこか無骨な漁具感をにじませることが可能なのだ。それが水中で泳ぎだし、魚を引き寄せ、釣ってくる…。
釣りそのものが、より深く、より濃密に、より洗練されたものとなる。
想像するだけで、心を高ぶらせてくれる。

ボディーに凝縮されたリアリズムが勝つか、魚が勝つか、リアリズムの攻防ともいえる、人と魚との“知恵”の駆け引き。
“いかにリアルで勝つか”これこそ原点に立ち戻ったルアー・フィッシングの本流といえよう。

ややリアリティーの本流を見失った感のある今の時代だからこそ、より純粋な「ルアー・フィッシング」=「知恵(人間の感性と工業生産技術との融合)の駆け引き」を味わいたいものだ。
そのような時代だからこそ、ルアーの本流ともいうべき、「極みのリアリズム」を体現したクリムゾン・ルアーがいっそう輝きを放ち、魚の目に映る。
ぜひ、クリムゾン・ルアーで、至極当然の”してやったり”感を味わってもらいたい。